北島の想い

北島のはじまりは長崎街道

北島の創業は元禄9年(1696)、長崎街道沿いの一角に数珠屋を開きました。
その後、店を現在の本店がある白山町に移し、享保年間(1716~1735)には規模も拡大し、今でいう総合商社のように国内外の流通に携わっていました。

鍋島藩の御用商人同士で株仲間を組み、長崎貿易を通して、鍋島藩窯で焼かれた高級磁器に使う絵薬や、呉服・小間物・荒物など人々の生活必需品を取り扱っていました。

シュガーロード・長崎街道によって伝わった「ぼうろ」

16世紀の半ばポルトガルの宣教師たちが海を越えて九州にやってきました。彼らはキリスト教を布教するために、ヨーロッパの珍しい菓子を民衆に与えました。

これらは南蛮菓子として江戸時代にも受け継がれました。佐賀には早くから長崎街道によって製法が伝わったうえ、穀物や砂糖が入手しやすく、菓子司たちによってさかんにつくられました。「ぼうろ」もその一つで、ポルトガル船員たちの保存食だったともいわれ、小麦粉と砂糖を水でこねて焼いただけの、形は小さく固い菓子だったそうです。

明治維新と「丸芳露」の誕生

時代が江戸から明治に変わる頃、香月八郎と安次郎の親子は、佐賀藩の御用菓子司である佐賀伊勢屋町の横尾家から、南蛮菓子の製法を習いました。特に佐賀の人々に愛される「ぼうろ」に着目し、子供からお年寄りまで安心して食べられる、新しい時代にふさわしい、より美味しいお菓子に仕上げようと、改良を重ねました。

ちょうどそのとき、明治維新によって一般庶民の食生活が劇的に変わっていきます。そこで二人は、固い「ぼうろ」の生地に江戸時代には食べられていなかった鶏卵を加えることを思いつきました。これが画期となって、さっくりして柔らかな現在の味わい深い丸ぼうろが誕生したのです。

「丸芳露」は和菓子と洋菓子の要(かなめ)

時代の変遷に合わせて「丸芳露」を中心に和菓子から洋菓子にいたる幅広い製品づくりに取り組みました。和と洋の製菓技術の要として、「丸芳露」づくりはとても重要な位置を占めています。

小麦粉・砂糖・鶏卵などの数少ない基本的な材料からでも豊かな味わいを引き出すことができます。材料をしっかりと吟味して、その持ち味を最大に引き出すよう心がけています。

さらに保存料や添加物などを安易に使用しない、菓子づくりに真摯に向き合う姿勢は、当店の伝統であり今も受け継がれています。流行に振り回されず、長い間お客様に可愛がっていただける本格的な製品をご提供することを最大の誇りとして、今後も菓子づくりに励んでまいります。